11月の風の便り

今日から11月ですが、中東が大変なことになっています。10月7日にパレスチナの武装組織ハマスがイスラエルに対し、かつてない規模の奇襲攻撃に出ました。戦闘員らはガザ地区に近いイスラエルのコミュニティーに侵入。住民数百人を殺害し、数十人を人質に取りました。今回の出来事の背景には、どんな歴史があるのでしょうか?

■イスラエルとパレスチナとは?

昔から、地中海の一番東の沿岸にある地域のことを「パレスチナ」と呼んでいました。南にエジプト、東にヨルダンがあって、北にはシリアやレバノンがある場所です。現在のヨルダン川西岸とガザ地区、東エルサレム、イスラエルはすべて、古代ローマ時代からパレスチナと呼ばれる土地の一部でした。聖書に書かれたユダヤ人の王国の土地ともされ、ユダヤ人は古来の祖国とみなしています。

パレスチナ人はまた、ヨルダン川西岸、ガザ地区、東エルサレムを総称してパレスチナと呼んでいます。このパレスチナの地にあるエルサレムには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれの聖地があります。宗教上とても重要な地域です。この地では、1948年にイスラエルというユダヤ人の国家ができました。その後は、この土地の中で“将来、パレスチナ人の国家になりたい地域”(東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ地区)を総じて、パレスチナと呼んでいます。イスラエル、パレスチナがそれぞれ国として共存するのが理想ですが、イスラエルの建国を発端に対立しているのがパレスチナ問題です。

■2つの悲劇~ユダヤ人とパレスチナ人

パレスチナ問題の根源は「2つの悲劇」にあるとも言われています。1つは、ユダヤ人が2000年の長い歴史の中で世界に離散し、迫害を受けてきた悲劇です。やっとの思いで悲願の国(=イスラエル)をつくり、それを死守していきたい、二度と自分たちが迫害されるような歴史に戻りたくない。そんな強い思いをユダヤ人はもっています。

もう1つは、パレスチナの地に根を下ろしていた70万人が、イスラエルの建国で故郷を追われたという、パレスチナ人の悲劇です。いまパレスチナ人が住んでいるのは、ヨルダン川西岸とガザ地区という場所です。国にはなれないまま、イスラエルの占領下におかれているのが現状です。周辺の国にも多くが難民として暮らしています。ガザ地区は、日本の種子島ほどの面積に約200万人が住んでいます。非常に人口密度が高く、塀やフェンスで囲まれ、人やモノの厳しい封鎖が続いていることから「天井のない監獄」とも呼ばれています。

イスラエルと武力衝突があると、空爆を受けて亡くなる人もたくさんおり、地域一帯が瓦礫になって、住宅や道路、水道などのインフラも破壊されます。国連が学校や病院を運営したり、食料を無料で配ったりしていますが、我々が当たり前に思っているような最低限の生活さえできない状況なのです。一方、ヨルダン川西岸は完全な自由はないものの、今はイスラエルから物資や資金が入り、許可があればイスラエル側に働きに出ることもできます。

■そもそものきっかけはイスラエル建国

パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました。しかし、この国は2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。このとき、ユダヤ人は、パレスチナを追い出されて世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。

その後パレスチナの土地の支配者は、歴史に応じて変わっていきますが、アラブ人、今で言うパレスチナ人が住み続けることになりました。散り散りになったユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで暮らすことになります。ただ、特にヨーロッパでは差別や迫害に苦しむことになりました。ユダヤ教の国で新しい教えを広めたのがイエス・キリストです。彼はユダヤ教の聖職者たちと対立し、十字架にかけられてしまいました。このため、のちにヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になってしまいます。ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。その代表例が金融業です。やがて金融業の需要が増すにつれ、その土地土地で富を握るようになります。また、昔から自分たちの宗教を守るのに熱心で、子どもの教育にも力を入れてきました。識字率が高く、知識階級の中でも影響力を持つようになります。いろいろなことが重なって、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史が繰り返されてきました。

19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。これを「シオニズム運動」と言います。それが現実化してくるのが第1次世界大戦の時です。イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束して。ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドから資金援助を引き出そうという狙いです。

一方イギリスは、当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すため、アラブ人にも「オスマン帝国と戦えば、独立国家をつくる」と約束します。さらに盟友のフランスとは、この地域を山分けする密約も結んでいたのです。歴史上、悪名高い「三枚舌外交」と呼ばれるものです。

結局、オスマン帝国の領土は、イギリスとフランスが山分けすることになりました。ユダヤ人は「だまされた」と思いつつ、パレスチナの地に移り住む動きを強めていきます。そして、最後の決め手となったのが、ナチス・ドイツによるホロコーストです。600万人のユダヤ人が殺害されました。

そして戦後になり、「もう二度とユダヤ人が迫害されることはあってはならない」と、悲願の国をつくる思いを強めていったのです。ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、1947年には「パレスチナの地に国をつくらせよう」という国連決議が採択されました。パレスチナの地を、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けたうえでエルサレムを国際管理下に置く。当時、この土地のユダヤ人が占める割合は、全人口の3分の1でしたが、56%の土地が与えられることになったのです。そして翌年、ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言します。パレスチナ側からすると広大な土地を取られてしまうため、「勝手に国をつくられるのはおかしい」と反発しました。建国の翌日(1948年5月15日)には周辺のアラブ諸国がイスラエルに攻め込みました。これが第1次中東戦争です。

■イスラエルが「被害者」から「加害者」へ

イスラエルは最初は苦戦しましたが、国連の分割決議で認められた土地は死守しました。その状態で国を少しずつつくっていきますが、パレスチナは相変わらず国にならない状態。周辺のアラブ諸国は、イスラエルに対する憎しみを募らせながら緊張状態が続きました。中でも決定的だったのが、1967年の第3次中東戦争です。イスラエルは、戦争前まで認められていた休戦ラインを越えて、国際法上、認められていないところまで占領したのです。この時イスラエルは事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを、統治下に置くことになったのです。

入植地の建設も、これ以降加速します。占領地での入植活動は、国際法に違反する行為です。こうしたことから、それまで国際的には「被害者」とみられていたイスラエルは占領者となり、ある意味「加害者」としてみられるようになります。結局25年間で4回も戦争が繰り返されるのですが、毎度イスラエルが軍事的に圧倒しました。

■パレスチナの蜂起とテロ、世界に募る危機感

戦争に負け続けたアラブ側、パレスチナ側は、このままでは耐えられないと「インティファーダ」と呼ばれる住民の抵抗運動が広がっていきます。住民がイスラエル軍に石を投げて抵抗するのです。一方、パレスチナの外では、アラファト議長率いるPLO=パレスチナ解放機構という組織が各地でイスラエルに対する武装闘争を展開します。

そしてもう1つ、大きな動きがあります。1991年にイラクで起きた湾岸戦争、イラクがクウェートに侵攻したことがきっかけで起きた戦争です。当時のイラクのサダム・フセイン大統領は旗色が悪くなる中で「アラブの正義のためにパレスチナを解放する」と言い出して、はるか遠くのイスラエルにミサイルを数十発も発射しました。アラブ世界の同情を集めようとしたのです。これをきっかけに国際社会から「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからない」と事態打開を求める声が高まります。そして、その後の歴史的な合意=オスロ合意へと向かっていくことになります。

1993年、アメリカとノルウェーの仲介で、イスラエル・パレスチナ双方のトップにより交わされたのが、パレスチナ暫定自治合意、いわゆるオスロ合意です。パレスチナに暫定自治区を設置して、いずれはイスラエル、パレスチナの双方が共存することを目指しましょうという内容です。和平交渉の期限とされていた2000年までは楽観論が広がっていました。双方の人たちの多くが、共存できる夢のような時代がくるのではないかと思っていたのです。

■崩れた和平への希望

ところが、2000年9月、当時右派の政治家でのちに首相になるシャロン氏が、エルサレムのイスラム教の聖地に足を踏み入れてしまいます。エルサレムの旧市街には「嘆きの壁」というユダヤ教の聖地がありますが、その上側に「岩のドーム」というイスラム教の聖地があります。同じ構造物の壁と天井が、ユダヤ教の聖地とイスラム教の聖地としてくっついているのです。

シャロン氏は大勢の警察官に守られながら「嘆きの壁」の上側にある階段を上り「岩のドーム」を一回りして帰ってきました。礼拝中だったイスラム教徒は、それを見て暴徒化しました。そして今度はイスラエルの警察がそれを力ずくで鎮圧し、死傷者が出たのです。これをきっかけに、各地で激しい衝突が始まってしまいます。約7年もの歳月をかけて築き上げてきた和平への希望が、わずか数日で崩れていきました。これを導火線に、暴力の応酬が始まりました。イスラエルの街中では、バスが吹き飛ばされるような爆弾テロが起きるようになりました。これに対してイスラエルは、パレスチナの過激派の拠点を空爆します。

衝突が長期化していく中、イスラエルの世論が右傾化し、選挙であのシャロン氏が首相になります。シャロン氏は、ヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁をつくりました。テロリストがイスラエル側に入ってこないようにするためのものです。高さは、最も高いところで8メートル、全長は700キロ以上にもなります。

■パレスチナの分裂とハマスの台頭

パレスチナ側では、オスロ合意後、暫定自治政府のトップとしてパレスチナをまとめていたアラファト議長が2004年に亡くなります。後を継いだのはアラファト議長と同じ、穏健派の政治勢力「ファタハ」に属していたアッバス議長です。和平派の指導者として期待されましたが、過激派を抑えるだけの力がなかったというのが大半の評価です。それで、イスラム組織の「ハマス」に2006年の議会選挙で負けてしまいます。

「ハマス」とは、イスラム教の教えを厳格に守ろうという人たちで、ガザ地区を中心にパレスチナの解放を訴えています。「過激派」と呼ぶ人も多いのですが、軍事部門でイスラエルと武装闘争を続ける一方、慈善活動や教育支援で貧しい人の生活を支えたりもしています。そのハマスは選挙に勝ったあと、2007年からガザ地区を独自に支配するようになってしまいます。

2007年からは治安対策を理由に、イスラエルはガザ地区をエジプトと共同で封鎖しています。ハマスおよびその軍事部門は、イスラエル、アメリカ、欧州連合(EU)、イギリス、その他の強国がテロリスト集団に指定しています。そうした中で、イランがハマスを支援し、資金や武器、訓練を提供しています。

一方、ヨルダン川西岸はイスラエルと和平交渉を続けるという立場をとっている「ファタハ」が統治を続けています。パレスチナが一体ではなくなってしまったのです。このため、パレスチナ内での和平への足並みがそろわなくなってしまいます。その結果、和平交渉そのものが、ほとんど行われなくなりました。イスラエル側も、パレスチナ側にやる気がないのなら別に急がない、という態度です。ファタハがやる気でも、ハマスがテロを繰り返すのであれば、そんな連中とは話ができないというような。結局、今のまま現状維持でいこうという力のほうが強く働いてきたのです。

その後は今に至るまで、事あるごとに衝突が起きてきました。ハマスがガザ地区からイスラエルに向けてロケット弾を撃ち、イスラエルが報復として空爆することの繰り返しです。

■ガザ地区はどんな場所?

ガザ地区は、イスラエル、エジプト、地中海に挟まれた全長41キロ、幅10キロの領土だ。約230万人が暮らし、世界で最も人口密度が高い地域の一つとなっています。ガザ地区の上空と海岸線はイスラエルが掌握しており、人と物の行き来もイスラエルが検問所で制限している。同様にエジプトも、ガザ地区との国境で出入りを管理している。国連によると、ガザ地区の住民の約8割が国際支援を頼りに生活しているといいます。日々の食料支援を必要とする人は、約100万人いるそうです。

■ハマスはなぜこの時期に攻撃?

ハマスの7日早朝の攻撃は、警告なく始まりました。ただ、イスラエルとパレスチナの緊張はかねて高まっていました。イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区で殺害されたパレスチナ人の数は今年、過去最多を記録しています。それが、ハマスによる今回の派手なイスラエル攻撃の動機となった可能性があるのです。

イスラエル人を多く人質にしたのは、イスラエルの刑務所に収容されているパレスチナ人約4500人の一部解放を求め、イスラエルに圧力をかけるのが目的である可能性が高いと思われます。パレスチナ人にとって、同胞の解放は極めて感情に訴える問題です。

■背後にイランの影

今回の攻撃については、イスラエルの宿敵イランが仕組んだとの見方も出ています。ただ、イランの国連大使は自分たちの関与を否定しています。イランとハマスは、イスラエルとサウジアラビアの歴史的な和平合意の機運が高まっていることに強く反発しています。今後、イスラエルの軍事対応がアラブ世界全般の怒りを呼ぶことになれば、和平合意は実現しないかもしれません。

■どれほど異例の攻撃なのか?

今回のハマスの攻撃は、ガザから仕掛けたものとしてはかつてないほど大胆で、イスラエルにとってはここ数十年で最も深刻な越境攻撃となりました。武装戦闘員らは、ガザとイスラエルを隔てるワイヤーフェンスを複数箇所で破って侵入しました。この前例のない攻撃は、1973年にエジプトとシリアがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた日、つまり第4次中東戦争が始まった日の50周年にあたる、その翌日に始まりました。

今回の攻撃を許したことは、イスラエル当局にとっての重大な失態でもあります。国内保安機関のシンベト、対外スパイ機関のモサド、そしてイスラエル国防軍のすべての能力をもってしても、この事態を事前に察知できなかったこと、あるいは警告を受けていても行動に移さなかったことは、驚きです。

イスラエルは、中東で最もネットワークが広く、資金力が豊富とされる諜報機関を抱えています。情報提供者や工作員は、パレスチナ武装集団やレバノン、シリアなどの内部にもいるのです。ガザとイスラエルを隔てる境界のフェンスに沿って、カメラやセンサーが設置され、軍が定期的にパトロールしています。さらにフェンスの上部には有刺鉄線が張られていて、まさに今回のような侵入を防ぐ「スマート・バリア」のはずでした。しかし、ハマスはまずドローンでセンサーを爆破し、さらにブルドーザーで壁を突破し、鉄条網に穴を開けました。海からイスラエルに侵入したり、パラグライダーで越境する戦闘員もいたようです。

■次に何が起こるのか?

BBCなどの報道では、ハマスのムハンマド・デイフ司令官は、パレスチナ人やその他のアラブ人に向かい、「(イスラエルの)占領を一掃する」作戦に参加するよう呼びかけており、この呼びかけに、ヨルダン川西岸と東エルサレム、さらにその他の地域のパレスチナ人が応じるかが、当面の大きなポイントです。

イスラエルはすでに、複数の前線で戦争になる準備を終えています(10月15日現在)。そして、最悪のシナリオは、レバノンの強力な武装組織ヒズボラを引き込むことです。イスラエル軍はガザへの激しい空襲と同時に、地上作戦に入るようです。

イスラエルのネタニヤフ首相は15日、イスラム組織ハマスとの衝突後、初めてとなる戦時内閣の閣僚会議を開き「兵士たちは怪物を根絶やしにするためにいつでも行動する準備ができている」と述べました。ハマスが実効支配するガザ地区への地上侵攻の準備が整ったと強調しています。イスラエル軍がガザ地区北部の住民に通告した退避の期限はすでに過ぎ、イスラエル南部のガザとの境界付近にはイスラエル軍の戦車などが集結しています。イスラエル軍はガザ北部のおよそ60万人が南部に移動したと明らかにしました。これまでの死者はイスラエルとガザ地区の双方合わせて7,000人を超えています。

もし、イスラエルによる地上作戦が始まれば、次はイランがほっておかないでしょう。戦闘規模はさらに拡大し、世界を巻き込む戦争に発展する可能性が出てきます。

2024年を前に、ロシアのウクライナ戦争、今回のパレスチナ戦争、さらに台湾有事が勃発となれば、力の弱っている覇権国米国を尻目に新たな覇権国争いへと発展し世界戦争へつながる可能性があるのです。日本もこの渦に巻き込まれるとしたら、2024年は大変な年になりかねません。

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